sakura542gouのブログ

日々思うこと色々書いてます。今年は空と結婚し、新たな生活が始まりました。

私がいじめの過去をさらす理由・・・

 私は小学6年生の時に激しいいじめにあったことはこれまでも何度か書いてきました。自分の辛い過去をさらけ出す理由…。それは、いじめを受けた経験のあるものが、声をあげて『いじめは絶対悪で、犯罪なんだ」と言うことを訴えていかない限り、いじめと言う悪質極まりない犯罪がなくならないという思いからです。私がいじめを受けたことを、書き込みするということは、自分自身、辛い事を思い出さなくてはならないので、時々胸が苦しくなるときがあるんですが、少しでも私と同じ苦しみを味わう子供をなくしたい。そう思って書き込みをしています。
 私がいじめを受けるようになったその理由・原因は私が、アレルギー性鼻炎を抱えていて、鼻水が出て、ティッシュが手放せなかったこと。本当にただそれだけでした。それから、話しかけても無視をする・教室の中で何かトラブルが起こった時、私の責任にされる・それに対して反発すると、何倍にもなって返ってくる。背中や腹など、直接目に見えないところを殴られる・蹴られる・『お前が触ったものに触れると、手が腐る』『お前は生きてたらあかん人間なんや。だからさっさと死んでくれんか』『お前は生きてる価値などない人間なんやから死んだらええねん』『化け物』『殺すぞ』などなどの暴言も浴びせかけられて、次第に生きる活力も奪われていって、毎日死ぬことばかりを考える日々。
 そんなある日、私が先生に、あまりにも辛いので『死にたい…』と、そうもらすと、『絶対に死んだらあかん。お前は絶対生きていかなあかん人間なんや。死にたいなんて言うたらあかん』と励まされました。そうやって何とか辛い中でも、先生は味方になってくれる。人数は少ないけど、助けてくれる友達もいる。そう思い、必死に耐えていました。そんな中、昭和58年11月の終わりごろ、私がインフルエンザに罹って学校を休んで、1週間ほどして登校すると、『化け物が来た』と言って騒ぎ立てる加害者。そして、その日の授業が終わって帰る途中、クラブ活動で使っていた鉄道写真集を教室に忘れてきたことを思い出し、友達に別れを告げてとりに戻って、自分の机を見てみるとあるはずの鉄道写真集がなくなっているんです。教室の中には加害者がたむろしていて、『お前が探してるのはこれか?』といって、私が大切にしていた写真集をもっているではありませんか。私が『返せ』と言って取り返そうとすると、『こんなもん、こうしてやる』と言って無残にもビリビリに破られて、バラバラにされてしまいました。私が持っていた写真集は父が、私の11歳の誕生日のプレゼントに買ってくれたものでした。その本を破り捨てて、加害者は『お前なんか死んでしまえ』『お前が死んだらみんなが幸せになれるねん。頼むから早く死ね』そういわれて、何度も腹や背中を殴られ、蹴られて、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまった私。家に帰ると、誰もいなくて、衝動的に私は台所に行って包丁を取り出し、自分の腹に突き当てて、『もうこれで苦しまなくて済む』そう思い、包丁を振りかざして突き刺そうとした瞬間、玄関の扉が開く音がして、母が、妹を連れて保育園から帰ってきたところでした。私は慌てて包丁をしまい、何事もなかったように振舞っていましたが、何か、私の様子がおかしいと感じたのでしょう。それからしばらくして『山口に引越しすることになった』と告げられて、引越しの日は昭和59年3月30日と日取りも決まっていたようです。
 このことはみんなには黙っていようと思っていたので、学校で私が口に出して言うことはありませんでしたが、冬休みがあけて、クラスメイトが『卒業式が終わったあと、ゴールデンウィークにでもみんなでこの教室に集まらんか』と言い出して、みんなが『賛成』と言う中、私ひとり黙ってました。『ゴールデンウィークには私はここにはいない。集まりたけりゃ、勝手に集まってろ』」くらいにしか思ってなかったんですが、先生が『お前はどうなんや?』と聞いてくるので、『黙ってるわけにもいかんか』と思い、私に対するいじめが原因で山口に引越ししなくてはならなくなったことを話しました。みんな黙って聞いていました。教室を包む重苦しい空気。それまでのおしゃべりが響いてたのが嘘みたいに、シーンと静まり返ってました。先生は『お前には辛い思いばかりさせて、本当に申し訳ない』涙をうかべて、私に謝罪してました。先生はずっと私の味方でいてくれたので、感謝していますが、こればっかりは、私にもどうすることが出来ないので、みんなに話をしました。
 それで残りの時間だけでもいじめがなくなるかとも思ったのですが、いじめはさらにエスカレートしただけでした『お前が山口に行っていじめられても大丈夫なように、うちらが鍛えてやってんねん』そんなことを言いながら殴る蹴るの暴行は、日常的に行なわれていました。そして、卒業式を目前に控えた2月17日、私の誕生日なんですが、誕生日を迎えたクラスメイトにバースデーカードを書いて送るということをやっていたんですが、書かれていたことと言うと、激励のメッセージもありましたが『山口に引越ししたら二度と帰ってくるな』『お前、その顔やめますか?それとも人間やめますか?』『死ね』『このクラスの恥さらし』など、とても酷いものばかりでした。そして卒業制作でスイミーの巨大版画を作ることになっていたんですが、私は風邪で体調を崩して、学校を休んでしまったので、遅れを取り戻そうと放課後も残って彫刻等を持って彫り続けていると、不意に背後に人の気配を感じた瞬間、思いっきり版画の板で頭頂部を殴られて、『テメーはさっさと帰れ』そういわれたんですが、脳震盪を起こしたみたいで、体の自由が全く利かず、それが加害者から見て、私が反抗的な態度を取ったと思ったのでしょう、思いっきり殴る蹴るの暴行を受けて、ずきずき傷む体を引きずりながら家に帰った私です。
 そして卒業式が終わって、加害者の親が『○○君ごめんね。うちの娘がいじめてたみたいで』と言ってきたんですが、このとき謝られたって、時すでに遅しでした。他の加害者や加害者の親からは謝罪の言葉は一切なく、私の心に残ったものは激しい怒り・恨み・憎しみだけでした。許されるものならば、俺が味わった苦しみをあいつらにも味合わせてやりたい。許されるものならば、あいつらを全員殺してやりたい。そういう思いが頭の中を支配していました。それと同時に辛い記憶が突然フラッシュバックのように甦ってきては激しい動悸が、度々私を襲いました。今で言うPTSD(心的外傷後ストレス障害)だったのではないかと思います。精神科を受診しなかったので、はっきりとしたことはいえませんが、あとで知った症状と、私の体に起こる症状がとてもよく似ているので、恐らく間違いないと思います。そしてその苦しみは31年が過ぎた今も私を苦しみ続けています。もう終わったはずなのに・・・。もう私に対するいじめは起こっていないのに・・・いつまで苦しめばいいのか?恐らくこの苦しみは、私が生きている間、一生続くのだろうと思います。
 加害者側から見れば、もう過ぎ去った遠い昔の話だと思うでしょう。しかしいじめを受けた側はすんだ話ではないんです。
 よくいじめられる側にも原因があるという人が居ますが、果たしてそうでしょうか。確かに私にはアレルギー性鼻炎と言ういじめの原因になるものがあったのかもしれません。しかし、これは私がうまれ持った体質であり、私にはどうしようも出来ません。仮にいじめられる側に原因があったとしても、いじめていいという理由にはなりません。いじめと言う行為は人の人権を踏み躙り、人格を破壊し、人の命を奪うこともある重大な犯罪です。もし、私が自殺をしていたら、あのときの加害者は、一生殺人者と言うレッテルを貼られて、重い十字架を背負っていかなくてはならなかったはずです。そこまでして人をいじめることに何の意味があるんでしょうか?いじめを行なっている人や、教育関係のお仕事に携わっておられる方、いじめの被害に苦しんでいる人、いろんな人がこのブログを見ていると思いますが、いじめと言う行為が、いかに悲惨で辛い思いをさせて、被害者の人生を、大きく狂わせるか、もう一度考えて欲しいと思います。
 私は、大きくなったら地元を走る鉄道会社の乗務員になるのが夢でした。その夢すら破壊された私が、今言えるのはいじめは絶対悪であり、見て見ぬフリをするのも加害者と一緒だということです。私もいじめを少しでもなくすことができるように、これからも、訴え続けていこうと思います。