sakura542gouのブログ

日々思うこと色々書いてます。今年は空と結婚し、新たな生活が始まりました。

昨日のヤフーの特集記事

 昨日、ヤフーニュースの特集で、いじめに関するテーマで10代の人たちに作文投稿を募ったということが書かれてました。テーマは「いじめていた私」『いじめられている君へ』です。被害者からは「絶対に許さない」という苦しみ、加害者からは「自分の身を守るためだった」という告白が綴られています。12歳の時からいじめ問題で発信を続け、絵本「いじめている君へ」も手掛けられた女優の春名風花さん(17)に投稿を読んでもらったというものです。
 
__一人になってしまう、怖い

 投稿は7月末から8月上旬にかけて、朝日新聞のサイトで募集されたそうです。回答欄で自分の年齢を選んでもらい、自身の経験談を投稿してもらったそうです。

 高校生向けニュースサイト「高校生新聞オンライン」の協力も得て、15歳から19歳まで20件の投稿が寄せられたということです。
 
 春名さんは12歳の時に朝日新聞に「いじめている君へ」を寄稿し、大きな反響を呼びました。同じ10代の投稿に何を感じているのでしょうか。

 まず春名さんが注目したのは、「いじめていた私」つまり加害者たちの投稿でした。

 春名さん:「登校してくださるくらいなので、やはり罪の意識があって、言葉が重くてリアルですね…」

 16歳女性からの投稿です

 小学校高学年の頃、私は二人の友達と一緒にいじめをしてました。本当はごめんね、ごめんねって謝りたかった。だけど二人の前でそんなことを言ったら「なんで謝ってんの?」なんて言われてしまう。二人に嫌われたら私は一人になってしまう。怖い。結局私は謝れませんでした。
 私にはその友達しかいませんでした。「あの子一人なんだ」って思われるのが怖くてその友達とずっと一緒にいるために、いじめに乗っていた。私は悪い事をしていないなんて1度も思ったことはない。
 今でもその子のことや自分のしたことを思い出して、泣く時があります。たまに朝の通学路でも会います。話す機会はあるのに、謝りたい気持ちがあるのに謝れない。私は弱い人間です。

 春名さん:「学校で独りになる事ってやっぱり重いんだなと思いました。個人としてどう過ごすかより、グループとしてどう過ごすか。自分の正義より、グループの空気として正しいことが優先されてしまう。この女性の友達二人も、本当にいじめをしたかったわけじゃないかもしれないのが、怖いところだと思います。

__正義感でいじめていた

 正義感でいじめていたという告白もあります。埼玉県の19歳からの投稿です。

 私は小学生の頃に、いじめをしていた。同じ通学犯だった男子を猿と呼んで菌扱いし、ランドセルを蹴り飛ばし、班旗で叩いていた。怪我をさせた事もあるし、彼の親に直々に怒られたこともある気がする。申し訳ないがあまり覚えていない。
 大人にはずっといい子だと言われてきたし、男女問わず友達になれるし、周りの人にはできれば笑っていてほしい。私にとって彼へのいじめは、その延長だった。私が彼をいじめることで、周りで観ている人が笑ってくれるのだ。いじめをしているというよりは、どちらかというと正義感だった。

 最初のきっかけは、私が彼にきつい言葉でツッコミを入れたのを、周りが笑ったとかそんな些細なことだ。それがどんどんエスカレートしていじめになった。

 「誰かに認められるため」「自分を主張するため」にいじめをしている人がいたらちょっと冷静になってほしい「いじめることじゃなくとも、あなたの魅力を伝える方法はたくさんある。

 春名さん:「いじめって承認欲求から来ているものもあるのかなと。人を傷つけるというのは、傷つけられた側の人に自分を刻み込むことだと思うし、いじめることで、一緒にいじめをしている仲間にも認めてもらえる」

 春名さん:「でもそこで得られる承認はすぐ消えてしまうもの。それに、楽しいという感情の後ろに「次は自分が虐められるかもしれない」という恐怖も一緒についてきてしまいますよね。

 「いじめていた私」に投稿した人たちは、もちろんいじめた経験がある人たちですが、同時にいじめられた経験もあるという人がほとんどでした。
 
 春名さん:「いじめられると、自尊心が失われます。いじめられることで、さらにグループに固執するようになって、グループ内でいじめが起きたと9期に、加担してしまうのかなと思いました。やらなければ、次は自分がやられるという恐怖に取り憑かれる。危機回避能力を発揮した結果、いじめる側に回るというのもあるのかなと」

___凶器は訪朝ではなく、ただの刃
 
 いろんな事情はあれ、やはり登校してきた加害者たちは罪の意識を持っていました。「許してなんて言わないから、もう一度謝らせて」「私は卑怯者だ」という後悔の言葉が異口同音に出てきます。

 春名さん:「人を傷つけるときに使うナイフって、訪朝みたいに持ちて3が安全だと思っていたけれど、本当はただの刃で、握っている自分だって傷ついているんですよね。人を不幸にしたという罪の意識は、すごく重いものなんですね」「いじめている瞬間に罪の意識を持っている人って少ないと思います。学校の中で大事にしていたものが、大人になって大事で亡くなったときに、なんであんなもののために人を傷つけていたのだろうという感情につながるのかなって思いました」

 「いじめは意識の外で起きている」と書いた人もいました。
 17歳女性です。

 いじめていた感覚はなかった。それがいい事とは思わなかったけど、それが悪でいじめだとも思わなかった。当時は本当に罪の意識すらなかった。でも今は私があの子を傷つけてしまったことは確かだと思っている。こんな文をこうして書くのも、私がしてしまった罪を少しでも軽くしたいからなのかもしれない。

 私は、いじめは意識の外で起こると思っている。多分最初はそう。「やってはならない何か」「制御するべき大切なもの」が意識の外に出てしまったときに、いじめが始まるのかもしれない。

 いじめが進んでから、意識の中に大切なものが戻ってきても遅くて、そこからは「もうこんなことはやめたい」って気持ちと「やるしかないんだ」って気持ちでごちゃ混ぜになる。

 だから私は、先生にいじめのことで呼び止められた時、心の中でちょっとホッとした。

___明日は当たり前に来ない

 一方で、もう一つのテーマ「いじめている君へ」には、被害者が書いたものが多数寄せられました。
 大阪府18歳女性
 私は君に怒っています。きっと謝ったら許してくれるなんて思わないでください。これは遊びの一環だと言って自分に都合よく生きないでください。虐められた子は一生その痛みを背負ったまま生きていくんです。

 君が変わらない限り私は君のことを許しません。虐められている子に明日は当たり前に来ないんです。今日生きることで精一杯なんです。君がそうさせているんです。

 春名さんが12歳の時に書いたのも「いじめている君へ」でした。
 
 春名さん:「ぼくは、傍観者のつもりで書きました。ヤッパリ被害者が書くものは、いじめた側を責める言葉がとても多いですね。でも結論は似ているところが興味深いです」

 結論とは「想像してほしい」という部分。
 千葉県16歳女性です。

 君のことは許さないよ。だけど、君が少し変われば私は君を許せるんだ。君には絶対に私の痛みはわからない。私には絶対に君の苦しみはわからない。それが普通。

 だけど想像はできるでしょ?だから、君には想像する人に変わってほしい。相手の痛みを想像してなかったからいじめてしまったんでしょ?だから、想像して。相手の気持ち。変わった君なら、私、許せるから。変わって。君のために。変わって。私が君を忘れるために。

 春名さん:「最初に許さないよって書いているのに、少し変われば許せると。虐めた側の気持ちを想像して書いているのかなって気もして。人の意識に絶対はなくて、変わることもある。そこに希望を持っているというのが、とても…なんだろうな…強い人ですね。

___許せないのは大人
 いじめの傍観者を巡る投稿も
 北海道16歳女性
 「傍観者も加害者だ」「見て見ぬふりはいけないこと」確かにそうである。だがそんな勇気が誰にだってあるわけでもない。「私が止めに入ったら次は私が標的に」そう考えてしまう人間は多くいる。酷いもので、私の周りには「みんなやっているから大丈夫」という子もいた。

 私が最も許せなかったのは、子供より団是の翁力を持っているにもかかわらず、知らないふりをした大人。だから一つだけ。そんな大人にはならないで欲しい。一歩間違えたら人が亡くなってしまう問題だからこそ、少しだけでも手を差し伸べられる大人になってほしい。

 今はできなくてもこれから先、少しでも助けられる力があるのなら、貸して欲しい。

 春名さん:「いじめ加害者は、いじめているとは思っていないといいますが、傍観者は気づいていますよね。虐めの解決は、やはり当事者同士では難しい部分があって、第三者の存在が大きいと思います。」

 春名さんは現在高校3年生
 「自分は芸能活動をしていたので、他のことは感じ方が違うのかなって思ってました。でも、投稿を読んでみて、、同年代の皆さんとの差は感じませんでした。どんな生き方をしていても、学校という空間では、あまり差はないんですよね。知ることができて本当に良かったです。」

 いじめの加害者・被害者双方からの投稿を私も読んでみて、私はいじめ被害者という立場で読んだんですが、いじめ加害者にも何らかの問題を抱えていることが多く、また、グループでのいじめの場合、「自分がやらなければ、次は自分がやられる」という恐怖心が虐めに加担する要因になっているというのもわかります。誰だって自分はいじめとは関係のない、安全なところにいたい。そう思うのが普通でしょう。でもそれじゃぁいじめ被害者はどうなるの?という思いは拭えないです。
 私が今も私をいじめた加害者を許せないと思う一番の理由は、私が大阪から山口に引っ越すまでの間に、いくらでも虐めをやめる機会はあったはずですし、謝る機会もあったはずです。でも私に対していじめに加担していた女子児童6人・男子児童2人のうち、誰一人謝りに来た奴はいませんでした。そして、小学校の卒業式の後、一人のいじめ加害者の親が「○○君、私の娘が虐めていたみたいでごめんね」と言ってきました。私はその親にいじめられたわけではありません。虐めに加担していたのはその親の子供です。本来なら、その親が子供を引き連れてでも、私の前にきて、誠心誠意謝罪させるのが筋だと思います。それが人として過ちを犯した時に取るべき道だと思います。
 私が小学校を卒業した後、何度か同窓会が催されましたが、いじめ加害者は私を見ると、まるで腫れ物にでも触るような態度をしていました。もういい大人なんだから、自分がやってしまったことに対して、きっちりとケリをつけたらどうなのか。私はそう思いましたが、その時はもう、すでに小学校を卒業してから10年という歳月が流れていましたから、加担したやつらも、私に対して謝罪する機会を逸してしまっていたのかもしれませんが、私は相手が誠心誠意謝らない限り許すつもりは一切ありません。私はいじめによって人生を滅茶苦茶にされて、大好きだった故郷の大阪を離れなければならなくなって、大切な思い出や大切な友達、何もかもすべて失ってしまったんですから。