sakura542gouのブログ

日々思うこと色々書いてます。今年は空と結婚し、新たな生活が始まりました。

阪神・淡路大震災から20年

 1995年1月17日阪神・淡路地方を襲ったマグニチュード7.2の直下型地震。死者は6434人に上る大災害となりました。この地震で多くの建物が倒壊し、あちこちで火災が発生し、地震によって道路や鉄道などのインフラが使えなくなり、まるで、戦時中に空襲を受けたあとのような、焼け野原が広がっていました。あの地震では耐震化の問題も指摘されるようになり、耐震化工事が広がるきっかけとなりました。
 発生時刻は朝の5:46分と早朝だったんですが、これがもし、通勤ラッシュの時間帯だったら…。もっと多くの被害を生んでいたかもしれません。
 実はこの阪神淡路大震災に私の母も巻き込まれそうになったんですが、運がよかったとしか言いようのない出来事でした。
 私の母は、この当時家で洋裁の仕事をしていたんですが、商品の仕入れに大阪は本町の問屋さんに向かっている途中、高速バスが新大阪に差し掛かった時に地震に遭遇したそうです。予定時刻よりも早くついていたということで、難を免れたんですが、もしこれが予定通りの時刻で走っていたら、間違いなくあの倒壊した阪神高速の下敷きになっていたと思います。私はあの映像を見た時に母が巻き込まれたかもしれないということで、会社を早退させてもらって連絡を待つことにして帰宅させてもらいました。やがて母から電話があり、無事に大阪に着いたからと連絡が取れて一安心。それから帰りの足を堂確保するかを調べるのが私に役目でした。当然、高速道路もダメ、新幹線も在来線もダメと言うことで、どうやって帰ろうかと言うことになったんですが、その日は高速バスも運行できないということはわかっていたので、まずは宿泊地を確保するために梅田近辺のホテルで宿泊できるところを探して、それから、テレビで情報を収集して、大阪から和歌山に向かう南海電車大阪市営地下鉄は動き始めたという情報が入ったので、それを元に帰宅の足を調べて、難波から和歌山港に直通する特急が8時に出発するから、まずはそれに乗るように。そして徳島港行きの高速フェリーが接続しているからそのフェリーに乗って、徳島港から徳島駅までバスで出て、徳島から岡山直通の特急に乗って、岡山から新幹線で帰るという行程を教えて、乗車券の手配の仕方も教えて、翌日の夜9時ごろ家に帰ってきました。
 青の経験を母は今も「ものすごく恐かったとしか言いようがないくらい恐かった」と言っています。あれだけの激しい揺れに見舞われたんですから、恐怖を感じるのも当然だと思います。大阪でも激しい揺れに見舞われたんですから、淡路島から神戸→宝塚付近までのびるい断層に沿った地域ではもっと恐かったと思います。
 今日は息子にも何が起こった日なのか、話をして、改めて地震が起こった時になにをしなければいけないか話をしようと思います。
 私が思うのは、家族が仕事や学校に行っているなどで、ばらばらになっている時にこのような大災害が発生したらどうすればいいのかなぁと言うことです。このような事態になったらおそらく携帯もメールもダメになると思います。道路や鉄道も寸断されて移動もままならない様になると思います。仕事中にこのような地震が発生したら、建物が壊れて中から脱出するのもこんなんになると思います。また危険物を取り扱うところでは火災が発生する事だってありえます。今一度地震を他人事として捉えるのではなく、わが身にいつ起こってもおかしくないとことに自分達は住んでいるんだという事を認識する必要があるのではないかと思います。
 
因みに阪神淡路大震災のときも母は、商売用の商品をしっかり仕入れて帰ってきました。