1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路島地方を襲ったマグニチュード7.3の直下型地震。のちに阪神・淡路大震災と呼ばれるこの地震は、死者6434人を出す、戦後最大級の大災害となりました。最大震度7の激しい揺れに見舞われ、多くの建物や高速道路が倒壊し、都市機能が完全にマヒした状態に陥りました。
私は大阪で生まれて、大阪からほど近い神戸や宝塚などの被災した都市によく遊びに連れて行ってもらっていましたので、私の記憶に残る街並みが、軒並み破壊され、焼き尽くされた姿をまともに見ることができませんでした。
この地震では、母も被災しており、今でも地震が発生した瞬間のことはよく覚えているそうです。母は、昔、洋服の販売・士立て直しの商売をしており、この地震当時も商品を仕入れに、夜行高速バスに乗って阪急梅田のバスターミナルに向かっている最中でした。予定より早く高速を降りて、梅田に向かっている最中に、激しい揺れに襲われたそうです。「ゴーッ」という地鳴りのような音がして、その直後に激しい揺れに襲われて、「死ぬかと思った」というほどの恐怖を味わったそうです。もし、バスがもう少し高速を降りるのが遅かったら、あの倒壊した高速道路の下敷きになっていたかもしれません。
梅田のバスターミナルに到着してからも、宿泊先の手配や、山口に帰るためのルート探しなど、難儀を極めました。というのも、地震発生当日は、阪神間を結ぶあらゆる交通手段が遮断され、大阪府内の鉄道も高速道路も、軒並み運休・通行止めになっていたためで、私はなんとか家に帰るルートはないものかと、あらゆる情報を駆使して、ルートを探しました。幸い大阪府内から、和歌山方面に向かう南海電鉄が復旧し、和歌山から徳島に抜けて、徳島からJR四国の列車に乗って岡山まで出て、岡山から新幹線で帰るルートを見つけて、時刻を調べ、母に連絡しました。そして翌日、丸一日かけて、母が家に帰ってきました。その表情は、明らかに恐怖を物語っていました。