当時、私の母は商売をしており、仕入れのために夜行高速バスで大阪に向かっていた最中に突然激しい揺れに襲われたといいます。そして、私は車の中で通勤途中、刻々と入ってくる情報を聞きながら会社に向かってました。そして、夜が明けて次第に被害の全容が明らかになるに連れて、大阪に向かった母は無事なのかどうかということで頭が一杯でした。この日は部品の供給のめどが立たないということで、製造ラインは稼動せず、私は上司に事情を話して昼で帰宅して、テレビで情報を確認しつつ、母からの連絡を待ってました。
あの倒壊した阪神高速の事故現場に巻き込まれたかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、先ずはバス会社に電話して見ようと思い、高速バスの山口営業所に電話で確認を取ったところ、バスは梅田のバスターミナルについたと連絡があった当窓口の方の話を聞いてひとまず安心したのを昨日のように覚えています。しかし、帰りの交通手段が見つからず、どのようにしたらいいか、引き続き鉄道の運行情報を確認すると、大阪から南に向かう鉄道は南海・JR阪和線ともに運転を再開したという情報が入り、それに沿って帰宅のルートを調べると難波→和歌山港→徳島港→徳島→岡山→新幹線と言うルートで帰宅できることが分り、母に連絡を取って朝一番で難波に向かって特急サザンの指定席を取ること、そして、徳島で特急うずしおの指定席を取るのと新幹線の特急券をセットで買うことを伝えて、翌日の夜8:00頃帰ってきました。
あの倒壊した高速道路や阪急西ノ宮駅の駅舎の惨状や爆弾が投下されたように焼け野原と化した神戸市長田地区の様子などは今も目に焼きついてます。
そして、東海道・山陽本線が全線で運転を再開してまもなく、私は大阪に用事があって出かけたんですが、新快速の車窓から眺めた三ノ宮駅前の廃墟と化したビルや 家屋の倒壊した光景は忘れると言われても忘れられない光景です。
あれから18年が経過して、震災を知らない世代も被災地域の人口の40%になると言うことです。震災の記憶の風化がいわれるようになってきた今、私たちは震災を知らない子供たちに、どのように伝えていくべきか、考えなくてはならない時期に来ているのかもしれません。
今度の夏休みには息子を連れて東北地方にいこうと考えております。障害のある息子には、ひょっとしたら記憶に残らないかもしれませんが、それでも、何か息子にも感じるものがあるのではないかと思い、仙台で運行されている、震災を語り継ぐ取り組みを行っている語り部タクシーに乗って、実際に被災地に要ってこようと思います。