まず、タクシーが向かったのは若林区蒲生地区です。建物や家自体は残っていても、中はすべて津波で流されて、ごらんのような有様になっています。被災された人の中には避難されている間に家に泥棒が入って金品を盗まれるという二次被害も発生しており、治安の悪化が大きな課題として残っているということでした。人が大変な思いをしているというのに、さらに追い討ちをかけるようなことをしてなんとも思わないのか、被災地に行って泥棒をしようと考える輩の神経が私には理解できません。
そして、ガラスに泥が大量に付着していますが、これは津波が襲来したときに付着したものだそうです。このことから、ここを襲った津波の高さがどれ位だったか想像できると思います。
そして、荒浜地区の海岸に着きました。ここは松林が広がるきれいな海岸が続いていたそうですが、この松林は海から吹きつける風を防ぐ防風林や、風に乗って運ばれる砂を防ぐ防砂林の役目を果たしていたそうですが、東日本大震災で発生した津波では、この松林が逆に津波によって民家を襲い、ミサイルのようになって多くの人命を奪うことになってしまったそうです。残った松の木を見てみると、葉のついていないところと、
ついているところの境目がはっきりわかると思いますが、この高さまで津波が到達したことを示しています。
この荒浜地区にも犠牲者を慰霊する慰霊碑と、犠牲になった人々の名前が刻まれた石碑がおかれてました。犠牲になった人々の年齢を見てみると、ほとんどが高齢者か、乳幼児でした。改めて犠牲になった人のご冥福を祈って次に向かった私たちでした。
次に向かったのが、名取市閖上地区です。ここは閖上中学校で、地震の発生した午後2:46分をさしたままとまっています。
そしてこの中学校では残念ながら14名の尊い生徒の命が失われてしまいました。
そして亡くなった生徒さんをしのんで書かれた寄せ書きです。この机に書かれた言葉。私たちも忘れずにしていきたいです。
この閖上地区が大きな被害を出したのにはある心理的要因が働いたためだとも言われています。それは、以前東北地方を襲ったチリ地震津波のとき、三陸地方沿岸では大きな津波となって、大きな被害が出ましたが、この地区では地形の関係で大きな津波とはならなかったそうです。そして、」この付近には伊達政宗が開墾のために作ったとされる帝山掘という運河があって、チリ地震津波のときこのお堀を越えて津波が押し寄せて来なかったそうです。それから、何の科学的根拠のない、帝山堀を越えて津波が押し寄せてくることはないという、迷信が生まれて、それが避難を遅らせてしまったということだそうです。
閖上中学校と検索すると、この中学校に避難した人が撮影された、閖上中学校の真下を濁流となって押し寄せる津波の映像を見ることができます。
この閖上地区も津波で多くの家や工場が流されて、広大な更地となっており、復興がまったく進んでいないことが見て取れます。
そして近くにあった小高い丘。閖上地区には高い建物が少なく、ここに避難した人もいたそうですが、津波はこの丘よりも高かったため、ここに避難した人はおそらく助からなかっただろうとドライバーさんが話されていました。
そして最後に案内してもらったのが、閖上中学校から車で5分くらいのところにある老人ホーム。ここには当然大勢の高齢者の方が入所されていたわけで、激しい地震の揺れのあと、車で入所者を避難させるためピストン輸送を開始していたところだそうですが、渋滞に巻き込まれて津波にのまれてしまって、避難が間に合わず、大勢の犠牲者を出す結果となってしまいました。このことから地震のあとに襲ってくる津波からいかに高齢者を迅速・且つ安全に避難させるかがいかに難しいか痛感させられました。
そして案内の途中で、荒浜地区の被災前と被災後の様子がどのように変わってしまったのかを、航空写真で見せてもらいました。赤い線が引かれてあるところが、今回案内してもらったところです。
今回、震災発生後初めて被災地を訪れました。あまりの惨状と遅々として進まない復興に本当に言葉もなかったです。今回は仙台市と名取市を訪れましたが、被災した地域の中で、私たち親子3人が見たのはほんのごく一部に過ぎません。おそらく被災した地域が同じような状態におかれているんだろうと思います。また復興に関しても各自治体によって温度差があるようで、仙台市のように、規模の大きな自治体では自前で復興事業も行えますが、規模の小さな自治体では復興への道筋すら描けないところもあるそうです。そうした自治体の規模によって復興に違いが出るのは好ましくないように思います。ここは国が先頭に立って復興に向けた道筋をはっきりと示していく必要があるのではないか。現地を訪れてみて私はそう思いました。今度私たちが訪れたときは、復興が進んで、少しでも被災した人たちが普通の生活に戻っていることを願いたいと思います。