sakura542gouのブログ

日々思うこと色々書いてます。今年は空と結婚し、新たな生活が始まりました。

34年前の節分の思い出


34年前、私たちは大阪から山口に引っ越ししてきました。1984年2月3日は、大阪で迎えた最後の節分でした。3月30日に山口に引っ越しをすると決まっていて、「あと一か月半でこの住み慣れた家ともお別れかぁ」と思うと、寂しさがこみ上げてきました。父が、暗く沈んだ私の心を少しでも晴らそうと思ったのか、明るい声で「さぁ、豆まきをするで~」とこえをかけて、皆手にマメをもって「鬼は外。福は内」と言って豆をまきましたが、私は節分を楽しむ余裕なんてありませんでした。いじめを受けて心の中はズタズタボロボロに引き裂かれて、今にも精神的に崩壊しそうな時に、豆まきを楽しむ余裕なんてありませんでした。「俺なんか死んだほうがいいんだ。俺さえいなくなればみんなが幸せになれるんだ。みんな俺がいなくなっても悲しむ奴なんて誰一人いないんだ」そういう風にしか思えなくて、自分の家族に対しても、疑心暗鬼になって心を開くことはありませんでした。「どうせ俺なんか死ねばいいと思ってんだろ」そういうネガティブな感情しか持てなくて、そういう自分に対しても嫌気がさしていて、いっそのこと今死んだら楽になるだろうな。そういう思いが私の心を支配してました。
そんな状態だったため、私の精神状態は非常に不安定で、やり場のない怒りや、悲しみの感情をうまくコントロールできず、家族にたいしても八つ当たりみたいなことをしてました。
節分の豆まきが終わって、父が「山口に行っても、みんなで力をあわせて幸せになろうや」そう言うことを言ってました。その言葉に私は過剰に反応してしまい「誰も俺の幸せなんか祈ってねーくせに。俺なんか死んだらええって思ってるくせに」つい、そういう言葉が私の口からついて出ました。父は「俺の子供に死んでええ子はおらん。みんな俺の大事な子や」そう言ってました。私は「じゃあ、何でみんなは俺のこと死ねばええって言うん❔。俺なんか生きてたってなんの価値もないんやろ❔。学校じゃあみんな俺のことそう言うてるわ」この時が私が親に対して初めて告げたいじめの実態でした。それをただ静かに聞いていた母がおもむろに「辛いんやったら、無理に学校に行かんでもいいんよ。いっつも気を張ってたらしんどいやろ❔。少し心を休ませることも大事やで」こう言ってくれました。
父の「死んでええ子はおらん」という言葉と、母が私に話してくれた言葉で、卒業までの一ヶ月ちょっと、もう少し頑張ってみようと、そう思えた私です。34年もたつのに、今でもその時のことははっきりと覚えている私です。