sakura542gouのブログ

日々思うこと色々書いてます。今年は空と結婚し、新たな生活が始まりました。

私の人生回顧録離婚調停編。

 私が元嫁との暮らしに決別し、実家に戻って迎ええた最初の夜。寝付こうにも、なかなか寝付けずにいろいろと考えていました。子供たちが寂しい思いをしていないだろうか・これで本当に良かったんだろうかetc…。いろんな思いが頭の中をかけめぐってました。そして別れ際の「お父さん行かんで~。帰ってきて~」と泣きながら叫んでいた次男の声が頭から離れませんでした。結局よく眠れないまま月曜日の朝を迎え、布団から起きて台所に向かった私。すでに両親は起きていて、一緒に朝食を済ませました。いつもなら、私が起きたら子供たちも起きてきて、一緒に朝食を食べて子供たちに見送られながら会社に向かうのが日課でした。それもなくなり、私は両親の「行ってらっしゃい」という声に見送られて仕事に向かいました。会社につくと家族構成が変わり、居住地も変わり、離婚に向けたいろいろな手続きがあるため、上司にそのことを報告しました。離婚が成立するまでは元嫁と子供たちは私の扶養家族であるため、健康保険の変更はまだでしたが、住所の変更や通勤経路の変更などの手続きがあるため、必要な書類を受け取って、帰り際に持ち帰って書類に必要事項を書いて提出しました。
 とりあえず、その時にできる変更手続きは全て済ませて、後は子供たちを正月連休に入ったら迎えに行くだけだと思ってました。
 一方、これは調停の時に明らかになったことなんですが、元嫁は次男から相当責められたそうです。「お母さんがお父さんを大事にせんかったからこういうことになったんだ」「お母さんなんて大嫌い」など、次男にしては珍しく怒りを露わにしていたそうです。元嫁は「お父さんはね、病気で働けん私と、あんたたちを残して出て言ったんよ。あんたたちのことなんてどうでもよかったんよ。」などといたそうですが、次男は「お父さんがそんなことするわけないもん。お母さんのウソつき」などと言って怒りをぶつけていたようです。
 そして実重という女と離婚が避けられないようになったこの状態で、どうするかということを話し合ったようで、私を被告人として、離婚調停裁判を起こし、私が根負けするまで裁判で争ってはどうかという提案を持ち掛けたことがのちに発覚します。山口家庭裁判所から令状が届いたのは年末も押し迫った12月25日だったと思います。
 ただ、この前に、息子の通う支援学級の担任をされていたK先生と、元嫁を交えて話す機会があり、K先生からは「Kちゃんもあともう少しで卒業ですし、どうか卒業するまでは今の学校に通わせてあげていただけませんか」ということを言われました。私も慣れ親しんだ小学校に通う方が息子にもいいだろうと思っていましたし、今になって転校するとなると、息子の心理的負担も大きいのではないかという思いもあったので、それに異存はありませんでした。そして、息子がそつぎょぷするまで、何とか生活を支えてあげて欲しいということで、12月・1月・2月は自分の給料の半分を元嫁に手渡すということで合意し、給料の半分を元嫁に、実家には5万円ほど家賃として入れることになっていたので、働いてもこの3か月の間は私の手元に残る現金はほとんどありませんでした。
 こういう取り決めで12月の給料が出た25日、元嫁がいる家に行くと元嫁の車とは別に、もう一台軽自動車が停まっていました。実重が自分の子供を連れて、元嫁のところでクリスマスパーティーをやっている最中でした。元嫁が「あんたもちょっと顔を出していくか?」と言いますが、二度と顔も見たくない元嫁と実重がいる所に行く気なんてさらさらないので、金だけ渡すと、さっさと家に帰りました。そして、家に帰ってみると裁判所からの令状が届いていました。中身を開けて詳しく読んでみると、元嫁が離婚調停を起こし、私が被告人として訴えられているという内容でした。訴えに対して応じないと、元嫁の訴えを認めたとみなされ、私から子供への親権の剥奪など、不条理な事態になりかねないので、否応なしに訴えを受けるしかありませんでした。クリスマスパーティーに誘っておきながら、裏では自分が散々今まで悪態をついてきたことを棚に上げて、裁判まで引き起こす元嫁。改めて元嫁の異常さが際立つ結果となりました。こうして不毛な裁判が8か月にわたって続くことになったのでした。