sakura542gouのブログ

日々思うこと色々書いてます。今年は空と結婚し、新たな生活が始まりました。

命について考えさせられる記事

  今日の新聞の社会面に、命について考えさせられる記事が二つ掲載されていました。
 一つは、電通の社員だった高橋まつりさんのお母様が、娘さんの命日に合わせて新聞に寄せた手記、そしてもう一つが、東日本大震災で行方不明のまま5年9か月が過ぎ、ようやく発生当時7歳だった女の子の遺骨がお父様の待つ家に帰ることができたという記事です。
 電通社員だった高橋まつりさんのお母様はあの事件が発覚した時から時が止まったままだといいます。未来も希望も失われたと。まつりさんは就職活動の自己PRで「逆境に対するストレスに強い」と書いてたそうです。
 電通では期待に応えようと仕事を続けて、正常な判断ができないほど追い詰めらていたのではないかと記されています。会社を辞めるように強く言えばよかった。どうして助けられなかったのか、後悔しかないという、苦しい胸の内を語っています。24年の生涯が日本を揺るがしたとしたら、まつりさん自身の力なのではないかと書かれています。
 まつりさんは生きて社会に貢献するのを目指していました。そう思うと悔しくてなりません。と書かれています。そして、人は自分や家族の幸せのために働いているのだと。仕事で不幸になったり、命を落としたりするようなことがあってはならないと書かれています。

この事件の後、ブラック企業に対する規制や取り締まりが厳しくなってきていますが、いまだに長時間労働や、長時間残業がまかり通る状態が続いています。お母様の言われるとおり、働くことで人が不幸になったり、健康を害したり、命を落とすようなことがあっては絶対にいけません。小手先の働き方改革ではなく、長時間残業を認めないなどの厳しい法規制が必要だと思います。そして、守れない企業や組織に対しては、会社名・組織名を公表して、厳しい罰則を科すことが必要だと思います。

そして、もう一つの記事ですが、福島県大熊町でただ一人、行方不明だった木村汐凪(ゆうな)さん(当時7歳)の遺骨が今月上旬、見つかったそうです。福島原発事故で、今も大半が帰宅困難区域となっている街で捜索を続けてきた父の紀夫さん(51)は「おかえり。だいぶまたせたな。」と言ってあげるそうです。

小学1年生だった汐凪さんは2011年3月11日午後、学校で友達と別れ、近くの児童館に向かった後、津波にのまれたとみられていました。
 遺骨が見つかったのは、一家が暮らした大熊町熊川地区の自宅から南へ300メートル離れた海水浴場付近。今月9日、がれき撤去の作業員が汐凪さんのマフラーを見つけ、中に汐凪さんのものとみられる首の骨がつつまれていたそうです。その2日後、汐凪さんと同じ詰め物のある歯が残った顎などの骨も発見され、DNA鑑定の結果、汐凪さんと特定したと、福島県警から連絡があったそうです。遺骨の発見現場からは12年6月、汐凪さんが履いていたスニーカーが見つかっていたそうです。紀夫さんは近くにいた警察官に周辺を捜索するように頼みたかったといいますが、若い人を被ばくさせてしまうことを懸念し、ためらったといいます。そしてようやく発見された愛娘の遺骨。本当に良かったなと思います。

この二つの記事を読んでいて思ったのが、原因はそれぞれ過労自殺と、震災と、全く違いますが、いずれも未来のある若い命だっただけに、残念でなりません。世の中には重い病や事件や災害に巻き込まれて、志半ばで命を落としてしまうこともあります。いま私たちが、こうやって生きていられること、生かしてもらっていることに対して、あらためて感謝しなければ、このような事件や災害・事故であの世に旅立っていかなくてはならなかった人たちに対して申し訳ないと思う私です。
 死とは多くの人に大きな悲しみを残します。自分なんか生きている価値がないと言っている人もいますが、その人の存在価値は、その人自身が決めるのではなく、あとに残された人が、その人の生きざまを見て、どんな人だったか、その人の生きた価値を決めるんだと思います。
 私は人生とは、人生という名の試合のマウンドに立って、キャッチャーめがけてボールを投げるピッチャーだと思っています。この世に生を受けて審判が試合開始を告げて、自分の命・寿命を全うしてあの世に旅立っていく、審判が試合終了を宣告するまで、マウンドに立って相手バッターと対戦し、闘い続けるのが人生だと思っています。
 人生という名の試合では、調子よく相手バッターを三振に切って取ることができるときもあるでしょうし、仲間の助けで相手バッターを打ち取ることができるときもあるでしょう。
 しかし、いつも調子がいい時ばかりではなく、フォアボールを連発して、大ピンチを迎えることだってあるでしょうし、ヒットをぼこぼこに打たれて大量失点するときもあるでしょう。また、時には手ごわいホームランバッターと対戦しなければならない時だってあります。そんな時。普通の野球の試合であれば、ピッチャー交代という選択肢もあると思いますが、自分の人生という名の試合では、ピッチャーは自分一人しかいません。どんなに打たれようが、大量失点しようが、審判が試合終了を宣告するまで、自分一人で投げぬかなくてはならないのが人生だと思います。
 ただ、人生という名の試合では、自分が勝ち投手になったのか、負け投手になったのかはわからないといういこと。その人の生きざまを見て、あとに残された人が決めるものなんだろうと思います。私は人生という名の試合において、絶対に負け投手になりたくない。そのためには、自分がどのように生きていくべきか、何をしなくてはいけないのか、そう考えています。今という瞬間を一生懸命に生きる。それが志半ばで夢や希望を絶たれてしまった人たちへの、自分ができる慰霊なのではないかと思います。